社会は俺をクズと呼ぶんだぜ

教習指導員の本音、書きます。

お金を出して勉強するということ

多分「勉強はダルいもの」と、殆どの中高生は思っているだろう。

 

しかし前まで「勉強ダリィ」とほざいていたクソガキが、大人になって暫く経つと「勉強って意外と面白い」と気づく。

 

何故だろう。中高の勉強はクソダルいのに、大人になってする勉強はなんだか面白い。勉強という本質は変わらないし、変な宗教に改宗した訳でもないのに、どんどん勉強が楽しくなってくる。

そんなことを言っている自分が、いよいよキモい。

 

 

これは、もしかしたら勉強すれば生活が豊かになりそうという希望が大人になって「よりリアル」になってきたからというのもあるが、一番の要素は"勉強するお金を誰が出すか"による。

 

 

以前、ママからお小遣いをもらったとき、その全額を競馬に賭けたことがある。

それは、そのレースでゴールドシップが、「何となく勝ちそうだったから」。

 

 

期待に胸を膨らませ、いざスタート。

ゴールドシップは、来なかった。

 

 

不思議とあまり悔しくはなかった。

別に俺が苦労して稼いだ訳でもないママからのお小遣いを競馬でスったことは何とも思わなかった。

「これが競馬だ。仕方ない」と開き直ることもできた。

正真正銘のクズである。

 

 

 

暫くして、自分で稼いだ金で競馬を賭ける機会があった。その時は「何となくゴールドシップは来なさそう」ではなく、寝る間も惜しんで新聞と睨めっこし、古今東西あらゆるデータを駆使して「ゴールドシップは来ない」と結論づけた。

 

 

 

いざレース。

 

 

 

 

ゴールドシップは、来た。

 

 

ぶっちぎりの1着だった。

 

 

 

 

すごく悔しかったし、泣いた。

初夏のくせに鼻水も垂れ流した。

「これが競馬だ」なんて微塵も思わなかった。

その時に賭けた金と希望、夢が一瞬にして砕け散った。

 

 

 

 

今思えば、高校受験の時に通った塾では悪態つきまくって毎日塾長にキレられていた。

しかし、大人になって始める資格取得の勉強には、何故かガチになった。

 

 

 

 

これは何故か。

自分がお金を払うかどうかによってそこに賭ける情熱は変わるからである。

 

 

自動車学校もそうだった。

自分で金を出した俺は、厳しい先生でもいいから運転が誰よりも上手くなりたかった。

教習のたび怒鳴られたけど、毎回新たな気付きがあって面白かった。これは決して、俺がドMだからではない。

 

 

しかし、今自分が自動車学校の教官になってみると、親に金を出してもらって通う生徒の意識の低さが目立つ。

 

学科の授業は居眠りこくし、挨拶もテキトー、技能で同じミスを何度もしたり、何かを指摘されたら「怒られて怖かった」とすぐクレームを言うし、「雑談して楽しい教習がいい」と言う人もいる。

 

 

あなたが自分でお金払っても、同じことを言うだろうか?

 

 

 

親に金を出してもらっても真面目に受ける人はいるが、それはごく少数。

どこかで教習を舐めてる人は多い。

 

 

 

苦労せずに手に入れたお金は、結局苦労をせずに使ってしまう。

自分で稼いだお金を勉強に使ってみることで、そこに注ぐ情熱は変わるかもしれない。

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